リコリス・リコイルは錦木千束の為に存在する

2022年10月22日土曜日

Animation

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どうでもいいんですけど「千束」って変換しづらくないですか。僕は「せんぞく」と入力して変換して出してます。そういう地名があるらしいので。

前回のblogで2022年一押しの夏アニメとして感情込めて取り上げた「リコリス・リコイル」、とうとう終わってしまいました。ネット上では幻の第13話以降も続いているようですが、気持ちは分かる。あれで終わってはいけない、勿体ない。我々にはもっと錦木千束が必要だ。ちさたきも、必要……かもしれない。必要ないかもしれない。いやホント、もしかしたら必要なくないですか。そう言えるのは何故か。

とあるblogで書かれていたのだけど、リコリス・リコイルは「ちさたき」を堪能する良質な百合アニメ……としては物足りない。12話を通じての供給としても不十分だし(特に後半)、「千束→たきな」への感情の矢印の大きさと「たきな→千束」の矢印の大きさが、バランスが取れてないという話。確かに僕もそうに感じた。

千束は文字通り死にかけのところをアラン機関に救われた過去を持つが、それを持ってしても長生きは出来ないと言われており、どんな気持ちで”それから”から”それまで”の時間を生きてきたか、想像してもしきれない。これは現実世界でも同様で、壮絶な経験を経たような人がその後の生き方や考え方、価値観が全く変わってしまったりすることは、よくある。千束も、もしかしたらそうだったのではないか。その結果としての、日々のあるがままを受け入れ、自分がやりたいことを最優先という生き方への到達。

そんな中に井ノ上たきなという存在が登場するのだが、物語的に千束周辺にフォーカスしたが為に「ちさたき」という構図が目立ってしまっただけで、おそらく彼女以外の誰に対しても、千束は日々同じような顔を見せてきたのではないか。表向きは。たとえばフキに対してでも。

実際のところはどうか。それは真島との対話から伝わってくるように、明らかに「どうでもいい事はどうでもいい」といったもの。これは多分、自分自身についてもどうでもいい、どうなってもいいと思っていたから、そのように伝わってきたように思う。自分は一度は死んだ人間で、もうすぐこの世を去る身。他人に対して言葉では自分を大切にするよう言うものの、自分自身はどうだっていいという、諦めの境地。そういうライフスタイル。

そんな、ややもすれば暗いキャラになりがちな背景がありつつも、表向きの千束はとにかくキラッキラしている。第1話で喫茶リコリコにたきなが初来店した時の様子は宮崎アニメかと思うくらい弾けていたし、第2話でのウォールナットに合流するあたりの珍道中と激しいアクションとのギャップはジェットコースター的だったし、第3話はもう全米が涙しただろうし、第4話はまるでM-1を見ているかのようであった。見た目も明るく可愛いが詰め込まれているし、安済さんの声も激ハマりしていて、もう一生千束だけ見て生きていきたいぐらいだった。

ただ唯一、第7話でミカと吉松が話しているところを立ち聞きしてしまった後の千束の様子は、観ていて少し不安になるものだった。キャラや演技がどうこういうのではなく、脚本としてフワフワしているように感じたのだ。そんなセリフや演出でいいのか?と。彼女の「命の恩人を探している」という設定については、このシーンに限らず全体的にモヤっとしていたように思う。設定盛り込みすぎて消化(昇華)し切れなかったのかもしれない。

ともあれ我々は、そういった色んな錦木千束を堪能してきたわけだが、これは例えば我々が井ノ上たきなの視点で錦木千束を見ている、そんな物語だったのではないか。勿論キャラクターとして井ノ上たきなにも魅力はあるし、その他のキャラもみんな個性的だ。しかしそれ以上に錦木千束という存在は大きい。大きすぎる。

元々のストーリー原案では、すこし違ったキャラだったという話があった。そこにキャラクターデザインや監督のアイディア、声優さんの声が加わったことで、究極の生命体・錦木千束が爆誕してしまった。彼女の存在は、脚本がどうとか、演出がどうとか、うんことか、そういったものを全て吹き飛ばすほどに輝いている。つい円盤だけでなくアクスタやキャラTまで買ってしまうほどに。

全12話では語りきれなかった設定やエピソードが山ほどあって、続編・続々編・劇場版など幾らでも展開が続けられそうなリコリス・リコイル。千束をもっともっと観ていたいと思いつつも、作品として引き締まったものになるかどうかは、何とも言えない。どこかで彼女が元気でいてくれれば、それでいいのだけど。

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